アリアン・ロケット開発物語
wrote: 2020/10/19
update: 2020/10/19
前回は、イギリスはフランスにブルー・ストリークの欧州化の案をもちかけてきたけれど、フランスでは反対意見が主流で、結局このプロジェクトについて具体的な進展はなく1960年の年を越した、というところまで書きました。(「アリアン・ロケット開発物語(7) - イギリスの提案と乗り気でないフランス:進展のない1960年」
https://www.france-space.com/feature/cat54/7---1960.html
参照)
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さて物語に戻ります。
しかし、事態は急展開します。年が明けて1961年。1月27日から3日間、イギリスのマクミラン首相はフランスのシャルル・ド=ゴール大統領とパリ郊外のランブイエで会談を行いました。ランブイエの森を一緒に散歩をしながら話もしたそうです。
そこでシャルル・ド=ゴールは、フランスで宇宙分野に携わっている者が皆反対であることを知りながら、フランスの参加を決定します。何故シャルル・ド=ゴールはそんな判断をしたのでしょう。私もそんな疑問を持ちましたが、当時の関係者も皆驚いたようです。
これについては、
1/欧州もロシア、アメリカに対抗して、とりわけアメリカの覇権に対抗して、宇宙の力をつけねばならないと判断した。
2/アメリカのロケット技術を導入しているイギリスとの協力を通じて、アメリカの水準の高い技術ノウハウを学びとることができると考えた。
3/この欧州共同プログラムの中でフランスが調達等の面でも支配力を高め、自国の産業・技術の発展を促進させたい。
4/フランスの独立路線政策を欧州内にも浸透させるつもりだった。
などの評価、分析があります。
上記の独立路線政策について:1958年、シャルル・ド=ゴールが政権に返り咲き、フランス第五共和制がスタートします。ド=ゴールは西側諸国の中でも独立路線を推進していきます。NATO北大西洋条約機構の地中海艦隊からフランス軍を撤退させたり、逆にフランス国内領土からNATOの軍事力を排除させたりします。「西側同盟国とはいえ、アメリカの覇権に対抗し、フランスが自由に決断できる状態にあること」というのがド=ゴール大統領の外交方針でした。
一方で「上記3つの理由とは全く関係なく、それはただド=ゴールの個人的判断だった」との言及もあります。
当時フランス軍の宇宙分野の重鎮であったオービニエール将軍は「私の個人的見解で、間違っているかもしれないけどね」と前置きをした上で、「ド=ゴールは戦時中イギリスに避難してレジスタンスを組織していた時、カフェで一杯のコーヒーを飲むにもチャーチルの許可が必要なくらいに大変肩身の狭い思いをした。それがあったので今回はイギリスに対し、助けが必要なら助けてあげてもいいよと上手(うわて)に出たい気持ちが働いたんじゃないか。」と話しています。
結局、大統領のこの鶴の一声で、フランスの参加が決まります。そして今まで「イギリスの企画」だったものが「英仏共同プロジェクト」に変わりました。
そしてこのマクミラン英首相とド=ゴール仏大統領会談の直後の1961年1月30日、この件についてイギリスが声をかけていた各国の代表者がストラスブールに集結し会議が開かれます。そこで英仏間の合意が調印され、同時に英仏共同プロジェクトとして新たに会議に出席した国々への参加の催促が行われます。
フランスの各関係部局にとっては、もう国のトップがやると決めてしまったものなのでその方針を進めるしかなく、その後の対外的交渉は、「やるならばいかに好ましい条件を獲得していくか」が焦点になっていきます。
実際のフランスの分担はイギリスが再提案してきたとおり第2段の開発提供でした。これにはSEREB(弾道ミサイル研究製造会社:仏)で研究開発されていた宝石シリーズの非対称ジメチルヒドラジン(UDMH)と四酸化二窒素(N2O4)の組合せの液体推進エンジンを利用することになります。この第2段は後に「Coralie(コラリー)」と名前が付けられます。
次回につづく
文:浜田ポレ 志津子(フラスペ)
No:D20201019-01
運営者 PROFILE
フランスの大学院で仏欧宇宙産業政策を学び、その後現地で同分野の調査研究に従事。フラスペを立ち上げ「フランス・欧州宇宙分野」をメインに情報を発信。
宇宙業界のほか航空、科学・技術・イノヴェーションに関する政策・動向の調査研究なども手がける。また在仏日系企業や日本人家庭のヘルプ業務も受託。