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解説・特集COMMENTARY / FEATURE

アリアン・ロケット開発物語

アリアン・ロケット開発物語(6) - フランスの状況:宇宙科学分野(1950年代後半〜60年代初頭の様子)

P20200820 Ariane1.jpg前回はイギリスがフランス余ってしまったブルー・ストリークの欧州化という同じ舟に乗せようと考えていた時期の、フランスの軍による観測ロケットと衛星ロケットの取り組みの様子を紹介しました。そして今回はフランスのロケットからみればお客さんとなる宇宙研究分野の状況をざっくり書いておきます。

1959年、国家として宇宙分野をとりまとめていかねばならない要請から、フランスでも宇宙研究委員会(CRS)が作られました。政府に国家的宇宙研究プログラムを提案すること、そして宇宙分野の国際情勢を把握し、対外的にも窓口になる機関です。

「フランスでも」としたのは、イタリアにもCRSという同じ略語で、同じような役割を果たす委員会があったからです。イタリアの方のCRS宇宙研究委員会は、欧州における宇宙科学研究のための協力体制作りの旗頭であったエドアルド・アマルディとエンジニアのルイッジ・ブローリオの尽力によって発足します。ルイッジ・ブローリオはイタリアCRSの議長でサンマルコ射場プログラムの父と呼ばれている人です。

P20200902 San Marco.jpg
さて、フランスのCRS議長の任には物理学者のピエール・オジェ(Pierre AUGER)が就きました。彼は当時イタリアのアマルディとともに欧州科学界をひっぱっていた人物ですが同様にフランス国内においても宇宙科学界をまとめていました。

そして1960年後半、委員会という名のもとに行える範囲には限界が見えてきたため、独自の予算をもつNASAのような宇宙機関が必要と考えられました。そこから仏国立宇宙研究センター(CNES)の設立が検討されることになります。そのCNESの初代総裁もピエール・オジェでした。ただし1962年秋、オジェは欧州宇宙研究機構(ESRO)に行くことになったため総裁は交代します。

P20200902 Pierre Auger.jpg


イギリスからブルー・ストリークを用いた欧州ロケット開発について持ちかけられた際、検討して政府に科学研究分野、実用分野における見解を述べるのもこのCRSの役割でした。

次回につづく

文:浜田ポレ 志津子(フラスペ)

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