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アリアン・ロケット開発物語

アリアン・ロケット開発物語(12)- イタリアとその他の諸国:反応と参加、不参加

P20200820 Ariane1.jpg前回、ブルー・ストリークを用いた欧州共同ロケット・プログラムにドイツが参加することになったところまで書きました。今回は現在でも欧州のロケット事業で重要な役割を果たしているイタリアと、その他の国の、プログラムの提案に対する反応と参加、不参加について紹介します。


イタリアの状況

イタリアは早くに(1943年)降伏し新政権は連合国側についたこと、西側にとってイタリアは地中海地域の要所であったこと、そして現実には既に経済・社会が疲弊していたことから、ドイツが強いられたような国力無力化は行われず、連合国、特にアメリカの支援・テコ入れのもとに航空宇宙分野が発展していきます。宇宙科学研究、ロケット技術、関連産業産業の各分野も同じでした。

イタリアの戦後の宇宙開発の特徴は
1/宇宙分野では科学研究が優勢だったこと。
欧州の宇宙科学研究の第一人者であったアマルディは、国内でも宇宙分野全般において指導者的立場にいました。
2/宇宙の科学研究分野にしても、輸送分野にしても、アメリカの援助を大いに利用したこと、
3/その過程で宇宙の科学研究分野にしても、輸送分野にしても、イタリア軍の協力を大いに利用したこと、
4/そして、この2/と3/の背景にはイタリアの経済的困窮も影響していたこと
が挙げられます。

経済的に厳しかった状況についてアマルディの例を挙げると、「当時科学界では核物理研究が最先端の花形分野だったが、これに必要なサイクロトロンや原子炉をもつのは、イタリアの台所事情からは夢のような話であり、結局彼は宇宙線研究の分野に傾いていく」という記述があります。

01-1 rev Amaldi.jpg


そしてこの宇宙線研究のためには、観測機器を打ち上げるサウンディング・ロケットや機器の回収手段が必要であり、このようなロジスティクスを提供できるのはイタリア空軍でした。アマルディは、使えるものを使うという姿勢で、空軍との協力を推進します。

1950年代のロケット開発分野では、ドイツ人技術者・研究者の海外流出の所で触れたヘルマン・オーベルトらのノウハウの伝授も受け、研究や実験が行われていました。そして空軍の協力を仰ぐと同時に、アメリカにも近付きます。技術の習得のため、さらに一国では投資できない状態を補完するためです。

この中にルイッジ・ブローリオ(Broglio)というリーダーがいました(英語読みでブログリオと書かれた日本語文献もあります)。「サンマルコ射場の父」と呼ばれる人物で、アマルディともにイタリア宇宙研究委員会(CRS)を発足するなど、イタリア宇宙輸送界を牽引していた航空宇宙エンジニアでした。

P20201129 Broglio.jpg

ブローリオは空軍の資金負担で超音速風洞を作ったり、サルディニア島のサルト・ディ・クイッラにある軍の火器試験場の一区画を、サウンディング・ロケット発射用に使えるよう、国防省と合意を結んだりします。空軍側も高層圏物理、弾道技術、超音速飛行などの点で興味が同じであったため、ブローリオらに協力します。

1960年4月にはNASAと高層圏研究のためのサウンディング・ロケット打ち上げに関する了解覚書(MOU)を結びます。そして1960年7月9日に上記サルト・ディ・クイッラから、アメリカのライセンスのもとに、イタリアのBPD社が製造したナイキ・ロケットの打ち上げに成功します。この初回は公表されませんでしたが、2回目の1961年1月13日の打ち上げは公式発表されました。

なお、このサルト・ディ・クイッラ試験場はそれ以降もロケット開発に利用され続けています。アリアン・ロケットの固体ロケットブースターの試験や、それを利用した欧州の小型ロケット「ヴェガ」の燃焼試験が行われています。

P20201129 Salto di quirra.jpg

そしてこのナイキ・ロケットの打ち上げ成功は、イタリア宇宙輸送分野に勢いを与え、次のサンマルコ射場プロジェクトが推進されていくことになります。赤道付近、ソマリア沖の海上射場建設プロジェクトです。この射場を利用して科学研究のためのロケットを打ち上げること、長期的にはロケット打ち上げ技術とそのマネージメント・ノウハウを修得し、人材も育てることでした。


イタリアの反応

イギリスが提案した欧州共同ロケット開発への参加に対し、イタリアは強く反対の意思を示します。イタリアで宇宙分野をまとめており、対外的にもこの分野で対応していたのは、アマルディとブローリオ率いるイタリア宇宙研究委員会(CRS)でした。

1961年9月の時点でもCRSは参加に反対しており、その主な理由は、
1/既に1段、2段ともイギリスとフランスが手掛けていたものを利用するため、イタリアにはロケットの重要な部分を開発する余地がなく、イタリアにとってメリットはない、
2/各国が独自に各段や各機器・システムを担当するという形は、開発組織としてよくない。運営上に問題が出てくるだろう。この点はアマルディも率先して設立し、科学技術に関する国際研究機関としてうまく機能していた国際欧州原子核研究機構(CERN)との比較をもって批判された点です。CERNではスタート時から参加している研究者・技術者らがプログラムを策定し、それに必要な機器の開発を行う、とういう体制がとられていたからです。
3/NASAを相手に進めているロケット打ち上げ技術の習得プログラム(サンマルコ射場プロジェクト等)と競合する、
4/このロケットができあがる頃には陳腐化している、
5/予算がない、でした。

これに対し、イギリス、フランスはそれぞれの在ローマ、英国大使、仏国大使を使ってイタリア政府に参加を促すよう話をさせます。またマクミラン英首相もファンファーニ伊首相に直接働きかけます(1961年10月)。この英・仏の働きかけはかなり強かったようで、資料類には「相当なプレッシャーだった」と記述されています。

また、参加を決めたドイツからも、プロジェクト参加によって見込まれる産業界の利益がアピールされ、イタリア産業界はこの話に大いに興味を持つようになりました。この点について、「相互防衛援助プログラム(MDAP)の枠組みの中で、『完成品』の供給を通じて行われるアメリカの支援は、イタリアのこの業界の存分な発展の妨げになった」と書かれている文献があります。「ライセンス生産の域を越えないのでは」という懸念を抱いたドイツ産業界と同様、イタリア産業界でも自分らが開発に加わることが今後の発展の鍵になると考えられたのでしょう。

そしてこの頃から、とうとうアマルディとブローリオも参加への抵抗をあきらめるようになってきます。

それでもイタリアは、イギリスのブルー・ストリークを用いた欧州共同ロケット・プログラムを行う欧州ロケット開発機構(ELDO)設立に関する交渉の最後の大きな山場となる1961年10月末~11月のロンドン、ランカスター・ハウスの会議にも、参加に否定的な態度で臨みました。

そのためランカスター・ハウス会議の最初の議題はイタリアの参加問題となります。ここでの交渉の結果、最終的にイタリアは参加を決意するに至るのですが、これは後の記事で、他の国との条件交渉も含め、ELDOの最終的な発足を決めたランカスター・ハウスの会議のところで紹介したいと思います。


オランダの参加

オランダは、テレメトリ機器と姿勢制御ユニットのテスト、後に慣性誘導システムを担当してELDOに参加することになります。資料が少なく具体的な加盟までの過程の情報を得られなかったのですが、ESAのレポートには、オランダも、ベルギーの回に書いたよう、ベルギーの参加理由に準じた考えでELDOに参加した、と解釈できる記述があります。

小さな国であるので独自で宇宙開発を進めることが不可能であること。欧州の枠組みでの協力にはおしなべて賛成であったことなどです。

実際にオランダは欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)、欧州経済共同体(EEC)、そして欧州宇宙研究機構(ESRO)に参加しています。ESROでは欧州宇宙技術研究センター(ESTEC)のオランダ誘致も行っています。ESTECがオランダに作られることが決定されたのは1962年、当初は仮の施設を利用しましたが、最終的に現在のノルドヴァイク(Noordwijk)の建設が始まったのは1965年です。



参加しなかった国々

最終的な不参加の決定は、時期的にもう少し後になった国もありますが、各国の非参加の理由には次のようなことが挙げられています。

1/オーストリア、スウェーデン、スイス:中立政策を採っていた国々。衛星打ち上げロケットの技術はICBMの技術と等しく考えられ、軍も開発に関わってくることから、中立政策に抵触した。
2/ノルウェー:技術面で、プロジェクトに参加しても何かを担当できるようなレベルは有していない、と判断された。
3/スペイン、デンマーク:費用の高さ。

これらがイタリアとその他諸国の状況でした。この後、設立に関する交渉の最後の大きな山場となる1961年秋のランカスター・ハウス会議と、もろもろの調整を経て、ELDOは発足します。次回は、その会議で話されたこと、そして決定されたELDOの資金分担、技術・作業分担、組織構造等を紹介したいと思います。


次回につづく

文:浜田ポレ 志津子(フラスペ)

No:D20201129-02