アリアン・ロケット開発物語
wrote: 2020/11/29
update: 2020/11/29
前回は、戦後のドイツに課された制約とその後の西側の動き、そしてドイツは自分の国だけでロケットプログラムを実現するのは無理だが、それを構成する何らかの各技術は担当できる、或いはできるようになる素材があったというところまで書きました。今回はそんな状況の中ブルー・ストリークの欧州化の提案を受けたドイツの反応を紹介します。
提案に対する最初の反応
1960年のブルー・ストリークの欧州化の提案に対し調査レポートの作成を依頼されたのは、現在でも活動を行っているDFG(ドイツ研究振興協会)でした。主に科学者を中心に構成されており、1960年のニースでの第1回COSPAR会議にもドイツを代表して出席していた組織です。
このDFGは欧州共同ロケット開発プロジェクトへの参加には否定的な回答を出します。1960年9月のことです。主な理由は、
1/宇宙科学研究分野での国際協力には賛成だが、やはりロケットの開発には関わるのを避けたいという考え、
2/科学衛星の打上げには新しくロケットを開発するのでなく、技術的に優れているとみられるアメリカのロケットを利用すればよいのではという考え
3/目下の最優先課題である国家の宇宙政策が確立しなければ、国際プロジェクトの参加はできない、
というものでした。
そして運輸省と、前回も名前が出てきたストラウス国防大臣の両者も反対でした。
当時運輸省はオイゼン・ゼンガーを宇宙輸送顧問としており、宇宙輸送分野ではゼンガーが提唱する往還機の開発を検討していました。これには他の技術研究組織や産業グループとの折衝が必要であり、実現の段階には至っていませんでしたが、「もし欧州共同ロケット開発をすればこちらができなくなる」というのが主な理由で、イギリスの提案には反対します。
国防大臣ストラウスは技術力の向上の観点から、既に古いコンセプトだとみられていたブルー・ストリークを用いた欧州ロケットの開発に参加してもドイツにはメリットはないと考えます。また、参加はアメリカとの関係を不安定にし、アメリカから先端技術を吸収できない恐れがあるという点で強く反対しました。
一方でアデナウアー首相は明らかにこの欧州共同ロケット開発プログラムに前向きでした。アメリカのケネディ民主党新政権(1960年11月当選、1961年1月就任)の方針がまだ不明であった点や、核武装に関するNATO内の意見の不一致などからくる欧州の不安定要素を危惧し、彼は欧州の新しい形での結束強化を強く望んでいました。加えて、外務大臣はアデナウアー首相と同様、賛成の意を表しています。
このようにドイツ国内では反対派が多いものの賛成派もおり、1961年1月末、この件で英仏間合意が署名されたストラスブールの会議においても国内での意見は割れたままの状態でした。
産業、技術界も加わるボック委員会のレポートと参加決定
しかし、正式回答をせまるイギリスとフランスの催促も強まり、いつまでも結論を引き延ばすわけにもいかなくなったドイツ政府は、再びこの件について再調査することにします。前回の科学研究者が中心となって行われたDFGレポートとは違い、今回は産業界、技術研究界、財政専門家も参加させて報告書をまとめさせました。
調査した委員会は、前回の記事の技術者・研究者の海外流出のところで少し触れましたが、ソ連から帰国し、ドイツ航空科学協会(WGL)の会長を務めるなど、この分野で活動していたギュンター・ボックが指揮をとったので、ボック委員会といいます。
このボック委員会は1961年5月22日、条件付きで参加に賛成の回答を出します。賛成の主な理由は
1/ブルー・ストリークの技術は、まだ陳腐化していないと判断された
2/アメリカとロケット開発分野で関係を進めていっても、ゆくゆくアメリカが実質的な開発部分を任せてくれるかどうかは疑問である、つまりライセンス生産の域を越えることはないのでは、という疑念、
3/欧州の連体強化、
4/今ロケット開発に関わる場を作らなければ、再び技術者が海外に流出してしまう、という懸念、等です。
これらにつき、欧州宇宙機関(ESA)の歴史研究レポートは上記の2/のアメリカに頼った場合の技術・産業面での自立への懸念の点が最も強い理由だったと書いています。また3/はアデナウアーの欧州での結びつきを強くしたいという意向が反映されています。
このように前回のDFGレポートから評価が反転したのは、このボック委員会への産業界の参加が作用しています。ドイツの産業界はアメリカをはじめ西側諸国の委託業務を行いながら成長を続けていました。業界が発展すればするほど、それを支える仕事や顧客の数も必要とされるようになり、新しいプロジェクトが嘱望されていました。
そして技術力の点では自ら開発や開発のオーガナイズが可能になることも期待され、この欧州共同ロケット開発は有意義だと判断されたのです。そのため委員会が付した条件の一つに、必ずドイツ企業に実質的な開発の割り当てがあること、が挙げられています。
もう一つの主要な条件は、国内の宇宙プログラムを早期に策定することでした。これは、前回にも挙げさせていただきましたが、戦後のドイツの宇宙輸送の発展に影響した点の 2つ目の、国際協力にドイツの特徴の二つ目のところで述べた「本来、協力とは自国が提供できる何かをもって対等な立場で行うものであるから、自国の力も強化しなければいけない」という考えからきています。
そして1961年6月28日、この報告書の意見が主な根拠となって、ドイツ政府閣議では欧州ロケット共同開発に参加することを正式に決定します。
まとめると、ドイツが、ゆくゆくは欧州ロケット開発機構(ELDO)となる、ブルー・ストリークを用いた欧州共同ロケット・プログラムに参加を決めたのは、ドイツ産業界の意向とアデナウアー首相の欧州団結強化主義が決定的でした。
次回につづく
文:浜田ポレ 志津子(フラスペ)
No:D20201129-01
運営者 PROFILE
フランスの大学院で仏欧宇宙産業政策を学び、その後現地で同分野の調査研究に従事。フラスペを立ち上げ「フランス・欧州宇宙分野」をメインに情報を発信。
宇宙業界のほか航空、科学・技術・イノヴェーションに関する政策・動向の調査研究なども手がける。また在仏日系企業や日本人家庭のヘルプ業務も受託。