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アリアン・ロケット開発物語

アリアン・ロケット開発物語(10):戦後のドイツに課された制約と世情&科学者、技術者の動き

P20200820 Ariane1.jpg前回は、欧州で協力してロケットを作ろうというイギリスの案について、ベルギーが仲間に入った部分を書きました。今回は英・仏に次ぐ第3のELDO(欧州ロケット開発機構)主要参加国であるドイツです。

前半のこの記事は連合国による制約を中心に当時のドイツの状況を、後半の次の回はドイツのELDO加盟への過程を紹介したいと思います。なお、ここでは1990年のドイツ統一前の西ドイツを指して「ドイツ」という言葉を使わせていただきます

戦後ドイツの宇宙輸送の発展には、次の3つの点が影響しています。

1つ目は現実的な面で、占領国・西側諸国のコントロールです。
まず、連合国はヤルタ会談に続くポツダム会談で、ドイツを無力化させるため「非ナチ化」、「非武装・非軍事化」、「脱産業化」の方針を決定します。「非武装化」の点でロケットの開発・生産が禁止されますが、加えてロケット開発以外でも、科学研究や実験を行う組織や施設の活動は、公立、民間を問わずすべて管理されることになりました。また産業面で金属、化学、機械工業の生産も厳しく管理されます。これらが後に述べる技術者・研究者の海外流出につながりました。

やがてドイツもNATO(北大西洋条約機構)に加盟することになった際、連合国が保有していたドイツへの占領統治権限はなくなるのですが、しかしここでもロケット開発の完全自由化は行われず、ドイツ1国での開発・生産に対する制約は続くことになります。これについて話し合われた9カ国会議(Nine-power conference ロンドン1954年9月末、パリ同年10月末)の決議文には、依然として核兵器、化学兵器、生物兵器、長距離ミサイル・誘導ミサイル・感応機雷、戦艦、戦略的戦闘機について条件付きで制約が続くことが明記されました。

ロケット技術につながる部分の条件をみると、開発・生産が許されたのは、近距離ロケットか対空用・短距離誘導ミサイルに分類されるもので、以下の条件を満たすものです。 

1/長さ2m以内、
2/直径30cm以内、
3/速度660m、
4/射程距離32km以内、
5/弾頭と爆薬の重量22.5kg以内。
ただし、核兵器、化学兵器、生物兵器の三種は完全にドイツ領内で開発や生産ができないのに対し、長距離ミサイル・誘導ミサイル・感応機雷、戦艦、戦略的戦闘機のうち、上記の範囲以上のものを開発・生産する場合には、ドイツは申請を行い、NATOが了解するならば可能である、と付け足されています。

ドイツにとっては制限の緩和であり、西側諸国にとってはイエスかノーかの決定権を継続して掌握していくことを可能にする決議でした。

P20201123 nine power HP.jpg
ところが情勢は変わっていきます。終戦直後はドイツの「脱産業化」「非軍事化」が掲げられましたが、冷戦構造が進むにつれ、地理的にも軍備生産力の点でもドイツの強化が必要となったため、占領国側は方針を変更します。自分らのコントロールのもとでドイツの「再産業化」を促進し、「再武装」にとりかかりました。

1951年3月にアメリカがドイツ占領規定の改正を要請した頃から具体化していき、軍事に関わる工業や技術産業でも段階的に生産制限が撤廃されていきます。航空宇宙産業、エンジン製造産業もその対象でした。一例ですがBMW、ベルコウ、メッサーシュミット、ポルシェ等は、アメリカ軍の武器調達局の委託業務を請けおい、事業の活力を取り戻し発展していくことになります。

その頃、1950年代後半から国防大臣を務めたストラウスは「西側が東側に対して優位に立つための必須条件は、産業競争力と先端技術力である。またドイツとしても産業競争力や国際政治の中での交渉力をつけるには、国内で新技術をマスターすることにかかっている」と強く考えました。

この考えのもとストラウス国防大臣はロケット開発に興味を持ち、ロケットに分野に関する知識も吸収していきました。そして宇宙分野、ロケット分野の新技術を取り入れるよう進め、積極的にドイツ国防省の仕事を国内の航空宇宙企業に発注したり、この分野の技術研究機関を支援したりします。

ベルコウ社は、国防省のロケットエンジン開発の契約を受注し、当時の最新技術であったフル・フロー・二段燃焼サイクルの液体エンジンを実現します。さらに、ストラウスはアメリカの戦闘機やミサイル等のライセンス生産を存分に行い、それを通じてアメリカの進んだ技術を吸収してドイツ自身の力も向上させようとしていました

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アメリカからの委託業務が多く見えますが、決して他の西側諸国がドイツに無関心であったことを示しているわけではありません。例えばミサイル分野のことですが、1957年にフランスはアメリカ抜きで仏伊独共同のIRBM開発を進めます。これはすぐにフランスが独自路線をとることになったため終わってしまいましたが、アメリカ以外の西側諸国がドイツを引き入れて取り組んだプロジェクトでした。

一方産業側では、ドイツ国内での開発・生産ができないことから、他国企業がドイツの技術者を招いたり、逆にドイツ企業が外国に技術者を派遣して技術分野の交流や協力を行っています。例えばBMWのロケット部の技術者らは、フランスで戦闘機のロケット推進エンジンの開発に従事しています。

戦後のドイツの宇宙輸送の発展に影響した点の 2つ目は、意識的な部分でした。それはナチスによるV2の開発と使用に対する重責と決別の思いです。「ミサイル開発やロケット開発は大量破壊兵器の開発につながる」という観念がドイツ人の中に深く刻まれたため、ロケット開発は否定的に捉えられます。そのため、連合国の強いる制約もあったとはいえ、自らの宇宙政策でもこれには重点を置かない、やるなら国際協力で行う、という指針が採られていき、宇宙輸送分野ではアメリカや欧州諸国との協力が推されていきます。

しかしこの「協力」の意味が問題でした。本来協力とは自国が提供できる何かをもって対等な立場で行うものであるから、自国の技術力も強化しなければいけない、という意見が無視できなくなってきます。「ペーネミュンデの悪夢と決別するためにはロケット開発には手を出さない」、しかし「自国の技術力・産業力のためには手がけなければいけない」、という二つの相反する意向が存在し、それらに折り合いをつけていかねばならないのが戦後ドイツの宿命でした。

3つ目に戦後の人材の動きが挙げられます。戦時中までロケット開発に関わっていた技術者や研究者は大勢海外へ流出しましたが、国内に残った者たちもいました。彼らは「ソサイエティ」という平和目的・研究目的の組織を作り、連合国の制約ギリギリの範囲でロケット技術の研究を行っていました。主にペーネミュンデの技術者らを中心に構成されています。戦前に存在した組織を復活させる形にしたり、その名前を引き継いだもの、新たに発足したものがありました。また彼らは国内・国際のネットワークを利用し、宇宙研究の平和的イメージを広める啓蒙活動にも従事しています。

海外流出組は、アメリカやロシアのほか、イギリスでブルー・ストリークのプロジェクトに携わったり、フランスでサウンディング・ロケット「ヴェロニク」や衛星打ち上げ用ロケット「ディアマン」の開発に従事したりと、欧州諸国に散らばっていました。受け入れ諸国にとっても、この分野に精通している彼らは自国の技術開発のため有用でした。


この人材の多くは1950年代半ば以降正式に帰国し、上記ソサイエティや産業界に合流するという形になります。この点で著名な人物を挙げれば、航空宇宙エンジニアで、戦前・戦中にはロケットエンジンを用いる航空機(爆撃機)や往還機、そして機体構造などの研究を行っていたオイゲン・ゼンガーも、フランス政府の軍用航空機開発のために働いていました。彼は1954年にドイツに正式に帰国します。

また次回に登場する、ドイツのELDO参加のための二度目の調査報告を行ったギュンター・ボックもソ連に連行されていましたが、1954年に帰国します。

そして『惑星空間へのロケット』などを記した宇宙飛行研究の重鎮ヘルマン・オーベルトは、戦後イタリアに滞在し、ロケット開発分野の指南をします。彼の場合はその後、自分の教え子であったフォン・ブラウンのいるアメリカに渡って活動しますが、ドイツにもたびたび帰国しています。

このように海外であれ国内であれ、ドイツ人技術者・研究者はロケット開発に関わっており、戦争によってこの分野の知識が完全に断絶されたことはなかったと言えます。

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まとめると、戦後ドイツのロケット開発には、占領国・西側諸国の思惑による管理が厳然と存在したこと、そして「過去の歴史からロケットは避けたい」という気持ちと「これからの成長にとって必要だ」という考えの間で葛藤があったことが特徴です。

結局、こうしてコントロールされている間に、既に欧州共同ロケット開発が始動しはじめ、また、そもそもドイツ国内にロケット開発への否定・躊躇もあったため、ドイツは、例えばフランスのディアマン、イギリスのブラック・アロー、日本の東大のK、Lや事業団のN、のような、インフラも含めた一国独自のロケット打ち上げシステムを構築することはありませんでした。


しかし西側諸国の委託業務の請負や人材の動きの点で、この分野が完全に断絶していたわけではありませんでした。この、国家として包括的宇宙輸送システムの構築は無理だが、それを構成する各技術は担当できる、或いはできるようになる素材があった、という点がドイツの宇宙分野における技術力・産業力の維持発展につながります。

次回につづく

文:浜田ポレ 志津子(フラスペ)

No:Y20201123-02