航空・科学技術
posted: 2019/03/03
update: 2019/06/25
フランス人のルイ・ブレリオ(1872-1936)は、フランスの航空機業界のパイオニア。技術者でもあり経営者でもあり、その過程で自らも操縦桿を握っている。とりわけ1909年にブレリオ11号で世界初のドーバー海峡横断飛行を成功したことで知られる人である。
その横断飛行、イギリスのデイリー・メール社が「成功者には1 000ポンドを出しましょう」として行われていた賞金レースへのチャレンジであった。今の時代でも、たとえば宇宙弾道飛行のアンサリXプライズや月着陸のルナーXプライズなどが企画されてきたが、航空黎明期もこの賞金レースは盛んであった。映画「翼よあれが巴里の灯だ」にもなった1927年のリンドバーグの大西洋単独無着陸飛行もこのような賞金レースへのチャレンジで行われたもので、一般の方々も「ああ、なんか聞いたことある」、「それ、知ってる」と思いあたる例であろう。
さて、このブレリオさんのドーバー海峡横断挑戦の当日。1909年7月25日の早朝の話。飛行するのはフランス側のカレの浜辺からイギリスの対岸まで、海の上を約40km飛ぶ予定。利用するのはブレリオ11号。これは同じく航空界のパイオニアででブレリオさんのコラボレータであったレイモン・ソルニエが設計した機体である。今回はブレリオさん自身が操縦する形であったが、そのブレリオさん、ものすごく緊張していたとのこと。どうして?
デイリー・メールが1906年にスタートさせたこのレースのために何年も苦労に苦労を重ね、ようやく試される時が来たから?競争相手より早く成功して賞金をゲットせねばならないというプレッシャーから?それらもあっただろう。しかし、その後の話では伝えられている。実はブレリオさん、泳げなかったそうだ。自身は泳げないので「海に落ちたらどうしよう」、とレースの時すごく怖くて緊張していたそうだ。
結局36分55秒でイギリス側の対岸に到着し、この成功でブレリオさんは一躍世間に名を馳せることになった。国からは勲章を与えられ、出発したカレの浜辺は後に「ブレリオ浜」と呼ばれるようになる。更にこれは事業面でも勢いのつくきっかけとなった。まず賞金1000ポンドを手に入れる。そして軍からのブレリオ11号の受注はうなぎ上り。その後は軍需だけでなく民間市場も手がけるようになった。
横断飛行を行ったブレリオ11号は3ヵ月後の1909年10月、今の仏国立工芸博物館(Musée des Arts et Métiers)に寄贈された。現在は同博物館のチャペル区画で展示されている。また、同機は量産される形になったので、その型の機体は、仏航空宇宙博物館(ブルジェ博物館)など、複数の施設で展示・保管されている。
photo credit 上 : ©Farabola/Leemage -AFP, 下: ©AFP
文:浜田ポレ 志津子(フラスペ)
No:Y190314-01
運営者 PROFILE
フランスの大学院で仏欧宇宙産業政策を学び、その後現地で同分野の調査研究に従事。フラスペを立ち上げ「フランス・欧州宇宙分野」をメインに情報を発信。
宇宙業界のほか航空、科学・技術・イノヴェーションに関する政策・動向の調査研究なども手がける。また在仏日系企業や日本人家庭のヘルプ業務も受託。